オーストラリア行きの日程が近づいて来た島生活。
どうしても行きたい場所があり、
一日早く村と島を引き上げることにしました。
道を通るパブリックバスを停めて、荷物を乗せてもらい出発。
なぜか一人のおじさんが、私が持っていたカメラを見て興奮したらしく、
乗車していた他のお客さん達皆をバスから下し、全員で記念撮影をすることになりました。
3時間、横のドアは空きっぱなし。
大雨が降っても関係無く、風と雨が吹き込む。
山道、ガタガタ道、なんとか酔わずに数時間乗り切りました。
それから色々動き、
いよいよ目的の場所へ出発。
向かったのは、
第二次世界大戦の跡地。
大東亜戦争で、日本軍が潜んでいた戦地。
雨が降っていたので、バイクはやめて、
バブリックバスのおじさんを交渉して貸し切りにしてもらい出発。
チャーターした運転手さんも以前訪れたことがあるらしく、スムースに洞窟の入り口まで案内してくれました。
自分達でバイクで来てたら絶対にたどり着かなかっただろうな・・・
洞窟までの道を歩いていくと、
心臓がバクバクして、手から汗が出てきました。
ドライバーさんは、洞窟の入り口で待っているからと、
亮太と2人で、ゆっくり長い階段を下りて行くと、
途中から暗くなり、
下りきった頃は、
iPhoneのライトが無いと、歩けませんでした。
洞窟の中は、
蒸し暑く、
訪れたのはお昼頃なのに、暗くコウモリが飛び回り、
キキキキキーとコウモリが鳴いていました。
歩き進んで行く度に
鍾乳石から滴り落ちてくる水滴が、頭やカメラに落ちてきます。
引用:「洞窟内は一面青苔が生え、湿気と人いきれで不潔な臭いがムンムンしている上、天井から何百本とたれ下るしょう乳どうからポタポタと水が落ちる。水がないので兵隊達はコウモリやヘビの小便が交っているかも知れないこの水を。空缶に受けては呑んでいる。奥の兵舎には重病人やケガ人がうめき声をあげ、彼等の糞尿はあたりに散らばり、一段と異様な臭いがただよう」
(昭和19(1944)年5月17日から6月13日に書かれたもの)
真っ暗な洞窟内で目をこらすと、まず視界に入ってきたのが、
ガラスビンやお皿などの破片。
形のきれいな物は回収されたようですが、後は約70年前のまま。
3000人〜5000人以上の日本兵がこの洞窟の中にいたとされているようです。
ただ、至る所にこんな洞窟があるらしく、正確な数字は分からず。
最終的には、この洞窟はアメリカ軍によって、
銃撃、手榴弾、ドラム缶爆弾、ガソリンを流し込まれたり。
ひん曲がったドラム缶などがそのまま放置されていました。
引用:
日一日と斃死ス
死臭ハ充満シ
流血ハ地を染メタリ
洞窟外一歩出レバ
砲弾ノ洗礼アリ
日常生活総テ洞窟内ニ於テ行ヒタリ
糞尿ハ流レ
死臭ト混和シテ悪臭ニ
窒息スル計リナリ
血ハ地ヲハヒ死汁ハ滲ミ
フン尿は流れ
洞窟ノ水滴モ為ニ味ヲ変ズ
飲料水ハ此ノ水滴ノミ
洞窟ヲ守ル哨兵ハ
毎日出テ毎日帰ラズ
地雷ヲ握リ戦車ノ下デ
するめとナリタル兵
立哨位置では死体ヲ楯トシテ
亦死スル兵
嗚呼忠勇無比ノ兵ハ
連日数を減ズルノミ
敵益々近接シ来リ
揶揄スル言辞ヲ弄シ
入口ニ戦車ヲ据へ砲撃ス
火焔放射器ヲ射シ
ドラム罐ヲ投ゲ込ミ火ヲ流ス
(中略)
これは食器でしょうか。。。。
五月 日章旗ヲ焼キ
○○○ハ自決シ全員突撃ヲ以テ
重囲ヲ突破スルニ決ス
動ケザル患者ハ自決ヲ命ゼラレタリ
夜 決行セラレタリ
明ケテ 太陽ノ下敵来レシ共
中ニ入ラズ終日砲撃ヲ繰返シ
最後ニドラム罐数十本投ゲ込ミ
洞窟内ハ火ノ海ト化シタリ
患者ハ手榴弾ニテ自決シタリト
火ノ海より脱出セシ者ニ聴キタリ
嗚呼西洞窟ノ惨戦ハ
国防ノ第一線ヲ死守シタル
物語リニ相応シキモノナリ...
ここのケーブで見つかった遺骨や遺品などは運び出されたとのことですが、
それでも時間が70年前から止まっていました。
そのまま放置してあるドラム管、触ったらボロボロと崩れだしそうでしたが、
触ると、その当時は熱く燃えていただろう物も、今では冷たく固まっている様。
ただ確実に劣化していることに、なぜか焦りを感じました。
今回、他の洞窟にも行きたかったのですが、
雨が多いせいかクローズしていたり、あまり知られていない洞窟へは情報も時間も無く、行けませんでした。
この後は
洞窟を後にして、政府が管理しているという場所に足を運びます。











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