今回、島でサーフィンをしている時、
ビーチで一人のおじいさんに声をかけられて、
ハッとししたことがありました。
「ニッポンジン?」
ニホンジン?でもジャパニーズ?でもなく、
発音良く、「ニッポンジン?」と聞かれて、
地元住民の人達の歴史にも戦争がしっかり刻まれているのだなと知りました。

小雨が降る中、
私は運転手さんが引き続き案内してくれた
政府が管理しているという
敷地?小屋?資料室にも行くことができました。

何回挨拶しても、誰も出て来なかったので、
勝手に小屋の中に入り、
当時の地図や、
兵隊さんの服、時計、眼鏡などを見ていると、
ようやく一人の女性がやってきて、
ゲストブックに名前を書くように促してきました。

ゲストブックの過去をさかのぼって見ても、
日本人の名前は見当たらず、
インドネシア人の学生かと思われる記帳がほとんどでした。
(社会勉強などで来るのでしょうか?)
展示されているものは、
日本軍の物がほとんどですが、アメリカ軍の物も少し混じっていました。

政府が管理していると行っても、
誰でも入れて、
案内人もおらず、
正直、大きな広場という場所でした。
無造作に放置されていると言ってよい状態で、
戦車、プロペラ機、機関銃などが置いてあります。
雨ざらし、
もしくは赤道から1度ずれた場所であるここは、炎天下になるはずです。
銃弾の痕や、
飛行機が落ちて、プロペラが曲がったものや、
側面の壁が吹っ飛んでしまったものなど、
当時の場面が鮮明に頭にイメージされていきます。

雨に濡れているヘルメットに触れると心の痛みが強くなりました。
一通り見て回ると、
運転手さんが敷地内の端っこの方にある小さな小屋を指指し、
しきりにインドネシア語で何か伝えようとしてきました。

運転手さんは小屋へ行こうとしないのですが
亮太と私に何か訴えかけてくるようなので向かって行ってみることにしました。
鍵のかかっていないこの木の扉を開けるとショックでした。

遺骨のお部屋でした。
開いたままの段ボールに詰め込まれている遺骨。
(段ボールの遺骨は、散乱していたものを拾い集めたものみたいです)
白い土嚢袋に入っている遺骨は、
状態よく見つかったもののようで、
一人一袋と分けてありました。

数年前に、日本人と地元の人達で大きな洞窟から拾われたらしいです。
まだ手付かずの洞窟もあるみたいです。
この部屋は辛かったです。
辛いのですが、部屋から出れないのです。

資料室で知ったのですが、
ヘルメットをかぶったまま見つけられた日本人兵も多くいたようです。
ヘルメットを付けたままの状態で何十年もいたなんて。

二つめの袋を見させてもらうと、
食器が一緒に入っていました。
もうこれ以上は見れませんでした。

資料室に、セピア色の日本兵の方達の写真がありました。
その横に、マッカーサーの写真がありました。
彼の写真は、今のカメラで撮って現像したものと変わらないくらい、
カラーで鮮明でした。
この日の気持ちはまとまらず、
今でもちゃんと文章にできません。

ゲストブックを出してきた女性に、
最後に日本人が来たのはいつですか?と聞くと、
前回のお正月と教えてくれました。
遺族の方が時々供養に訪れるそうです。

個人的には日本政府の対処や処理については分かりませんが、
でも今でも遺族の方がいて、
失った家族のことで心を痛めている人達がいるというのが現状。
まだ戦争は日本でも続いていると強く感じた瞬間でした。

フィリピン、スマトラからニューギニア、マーシャル、ソロモン・・・
今ではサーファーにとっては夢の地です。
国籍関係無く、一緒にサーフィンしています。
70年、されど70年。

運転手さんは最後に、
モニュメントがあるビーチに連れて行ってくれました。
きれいなビーチです。
かつては、太平洋のウネリをかわすここに戦争のための船が出入りしてたようです。

訪れた戦地痕から車で10分で港町に出れました。

この日の記録はブログでは終わりにします。
ここに訪れたからといって、私はこの資料室にもっと良い保管室のための寄付もできませんし、
遺族の方にも何もできません。
現在進行形で世界で戦争が起きていることを知ること。。。
今後 この日見た事、感じたことは、
私の中で何回も思い返されると思います。